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長年芸能界のトップに君臨し続ける明石家さんまさん。

いくつ年を召しても衰えないお笑いセンスは圧巻で、現在もリアルタイムで売れてる若手と台頭かそれ以上の絡みを見せる、まさに”お笑い怪獣”です。

明石家さんまさんは若手芸人には、”芸人はどんなことがあっても泣いてはいけない”と教育されていますが、実はこの言葉の裏にはとんでもない美学が隠れていたのです。

今日は、さんまさんの若い頃から現在までの経歴や悲しい過去を振り返るのと同時に、現在までの年収や立派な自宅について書いてみたいと思います。

明石家さんまの経歴と生い立ち。家族兄弟と悲惨な弟・母との死別

本名杉本 高文(すぎもと たかふみ)
愛称さんまさん、さんまちゃん、さんちゃん、若、ミスター27時間テレビ、眠らない九官鳥、お笑い怪獣、笑いの窃盗犯
生年月日1955年7月1日
出身地奈良県奈良市
血液型B型
身長172センチ
体重61キロ
出身高校(最終学歴)奈良県立奈良商業高等学校
職業お笑い芸人、司会者、俳優、ラジオパーソナリティー、構成作家
趣味

映画観賞、洋裁、日曜大工、スポーツ観戦、他多数

特技:サッカー、水泳、手品

明石家さんまの家族構成

父親

杉本恒。さんまの加工業。さんまが50歳の頃に心肺急停止で死去。

母親さんまが3歳の頃に死去。
継母父が再婚した従姉。さんまとは折り合いが悪い。
兄貴(5歳年上)杉本正樹。「カラオケさんま」を経営(父が最後に経営していた)。嫁は30歳年下。
義弟杉本正登。父の再婚相手の連れ子。奈良育英高校サッカー部でキャプテンとしてインターハイ出場。さんまは大切に可愛がっていた。
女優:大竹しのぶ。さんまの2歳年下。1988年に結婚し1992年に離婚。
長男二千翔(にちか)。1985年1月29日生まれ。大竹しのぶの連れ子だがさんまは離婚後も我が子のように可愛がる。慶應義塾大学卒業後にアメリカで就職しその後は大竹しのぶとイマルのマネージメント。
長女IMALU。1989年9月19日生まれ。

さんまは3歳の頃に実母と死別。継母と年の離れた義弟がやってくる

明石家さんまさんは奈良県で生まれ、奈良で育ちました。

家族はさんまさんと両親とお兄さんとの4人家族でしたが、3歳の頃に実の母が亡くなりました。

母が亡くなった後、さんまが小学4年の頃に父が従姉と再婚し継母が連れ子と共にやってきました。(連れ子はさんまの年下で”義弟”ができた)

さんまさんは年の離れた弟を”チビ”と呼んで可愛がり、大変喜んでいました。

しかし、継母は義弟ばかり可愛がり、さんまと兄のことは可愛がってくれなかったそうです。

それでもさんまさんは継母に好かれようと、たくさんのギャグとボケを家で披露して頑張ったそうです。

それがさんまさんのお笑いの原点になったそうです。

継母が酒に酔って「うちの子はこの子だけや」。兄と布団を被って泣いた

ある日、継母が酒に酔って「うちの子はこの子(義弟)だけや」と言ったのを隣の部屋で聞いてしまい、兄と2段ベッドで布団を被って泣いたそうです。

これがきっかけで明石家さんまさんは現在もお酒が苦手で、お酒を飲む女性も苦手になりました。

また、大竹しのぶさんと結婚した際、連れ子の二千翔くんを我が子のように可愛がったのも、子供時代の継母とのことがあったからだとされています。

離婚した後も一緒にご飯に行くなど、現在も本当に自分の息子だと思っているみたいです。

継母に関してはテレビでほとんど言及することはないですが、楽しい逸話が少ないせいでしょう。

本当の母のような愛情は貰えなかったとしても、決して憎んではいないようです。

本人ではなく、親戚ベースの記事によると、

”小学生の頃は母の料理が美味しすぎて太っていた”

”着物を仕立ててもらった”

”実家へ帰ったときは贈り物をしていた”

など、微笑ましい逸話もあるみたいです。

父・恒は心肺急停止で死去。兄・正樹は現在スナック「カラオケさんま」を経営

さんまさんは3歳で母を亡くし、小学4年生まで父の手1つで育ちました

女好きで母性を欲しがる理由が分かる気がしますね。

そんな父も2006年にさんまさんが50歳の頃に心肺急停止で亡くなりました。

当時は報道陣を一切寄せ付けず、大袈裟な取材もすべて断ったそうです。

お父さんは亡くなる前までにスナック「カラオケさんま」を経営していました。

死後は兄の正樹さんが経営を引き継いでいます。

兄の正樹さんは2010年に「さんま・清の夢競馬2010」に出演し、”似てる”と話題になりました。

また、2010年当時で31歳年下で29歳の奥さんと3回目の結婚をし、奥さんは妊娠中だと話していました。

番組の中でさんまさんは「奥さんが母親の面倒を見てくれている」と語り、現在は兄夫婦が継母の面倒を見ていることが分かっています。

さんまの弟は19歳の頃に実家全焼で死去。焼身自殺の説も・・・

明石家さんまさんは実の母と父の間に産まれた次男で、純血の兄弟は兄貴ただ一人です。

弟の杉本正登さんは母が亡くなった後に父が再婚した継母との間に産まれた子です。

さんまさんは弟の杉本正登さんと仲が良く、ずっと可愛がっていました。

ぼくのことを、昔から、すごく尊敬してくれるやつでね。ぼくがいうことは、すべて正しいと思っていたみたいですよ。

現在のさんまさんはサッカーが大好きで、サッカー関係のトークが得意であったり、サッカー関係の番組を任されることがあります。

さんまさんのサッカー好きは、実は弟の杉本正登さんが奈良育英高校サッカー部でキャプテンとしてチームを引っ張り、インターハイ出場まで進んだ経歴も関係してるそうです。

そんな弟さんですが、高校を卒業した後は家業を継ぐことを決心していたそうです。

しかし、弟さんは高校を卒業した1年後の1983年4月18日に、実家の火事が原因で焼死してしまいます。

一部の報道では、焼身自殺だという記事も出ており、世間も驚いていました。

仮に自分で命を絶ったとしたら、原因は家業の後継が問題だったのでは?と憶測の記事が出ていました。当時の記事では、弟が高校の同級生に家業を継ぎたくないと漏らしていたことが書かれていました。

さんまさんは最愛の弟の訃報に、泣き崩れたそうです。

さんまさんは弟の自殺説については、

あいつは自殺するような人間やない・・・もし自殺するほど苦しんでいたら、ぼくにひとこと相談したはずや・・

涙を流し否定していました。

明石家さんまの弟が亡くなった本当の理由は?衣服から不自然な量の灯油

さんまさんは弟が自殺をするような人間ではないと否定しています。

しかし、その後の調査で自分で灯油を体に浴びたということが分かっています。

当初は、弟さんが工場の中央で発見された為、弟さんが火を消そうと試みている間に煙に巻かれて逃げることが困難になり亡くなったされていました。

(実家は1階が工場で2階が自宅という自宅兼工場で、他の家族は就寝中でしたが途中で火事に気付いて逃げ無事でした。)

警察の捜査が進むと、工場内は広く、煙に巻かれるのには時間がかかること、弟さんが就寝中の家族に火事を知らせようとしなかったことなどが不自然な点が浮かび上がりました。

警察が弟さんの衣服を調べたところ、灯油が上着だけではなく下着にまでべったりと染み込んでいたことから、大量の灯油を全身に浴び、火をつけて焼身自殺したと断定し発表したのです。

弟の死に引退まで考えたさんま。オール巨人のフリに救われる。

実は前年の10月に大阪のさんまさんの自宅に弟は遊びに来ており、今度のワールド・カップをふたりで一緒に見に行こう。キップはぼくが買っとくから」と約束をしていたのです。

告別式では”涙を見せまい”と口をへの字に結び、必死に耐えていたそうですが、その後にすぐに立ち直ることができなかったそうです。

ショックのあまりお笑いの仕事にも支障が出てしまったそうです。

なかなか笑いが取れなくなった事に気が付いたさんまさんは引退も考えたそうです。

そんな時に救いの手を差し伸べたのが同期の”オール巨人”さんです。

オール巨人さんがさんまさんと共演した際、思い切って、

お前んち兄弟焼いたらしいな

と、さんまさんの弟の事故を弄ったのです。

一瞬、場の空気がヒヤッとしましたが、さんまさんが、

なんてこと言うんや!!!そや、材木きれたから代わりに焼いたんや

と、阿吽の呼吸の切り返しを見せ、大爆笑を作ったのです。

その後にさんまさんは、

俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いてる人を笑わせて幸せにしたいんや。これが俺の笑いの哲学や。

と引退を留まり、現在までに多くの番組で活躍し続けているのです。

実はさんまも不孝な事故に遭いそうだった?『日本航空JAL123便墜落事故』

さんまさんは1983年4月18日に最愛の弟を火事で亡くしてますが、その直後にさんまさん自身も不孝な事故に巻き込まれる寸前だったそうです。

さんまさんが巻き込まれそうだった事故とは、弟の事故から2年後の1985年8月12日に起きた日本中を揺るがした大惨事『日本航空JAL123便墜落事故』です。

明石家さんまさんは事故の日、東京フジテレビ『オレたちひょうきん族』の収録後、事故したJAL123便で『ヤングタウン(毎日放送系)』に出演する予定だったのです。

『オレたちひょうきん族』の収録が予定よりも早く終了したため、JAL123便をキャンセルし、前の便で大阪へ飛び、難を免れたのです。

墜落事故後、明石家さんまは、急遽自身の出演ラジオを報道特番に変えて事故の状況を伝えたのです。

「遺族のお気持ちを考えると、ちょっとお笑いトークはできませんね。しかも、日航123便は、この「ヤングタウン」に出演するための移動手段として、私もよく利用していたんですよ。今日も123便を利用する予定でした。身体がずっと震えています。もしかしたら、私も死ぬところだったかも しれない」

明石家さんまさんはこの事故以降、新幹線で行ける距離であれば飛行機を利用しなくなったそうで、弟の事故と合わせてかなり生活を変えました。

この時期に、さんまさんは”生きてるだけで丸儲け”と考えるようになったのです。

1989年に産まれた娘「いまる」の名前の由来にもなっています。

明石家さんまの年収と自宅。若い頃は汚いアパートで鍵なしで住んでた?

長年、芸能界のトップを走ってきた明石家さんまさん。

番組1本のギャラは推定300万だとされ、年収は常に5億はあるとされています。

それでも、一時期引退を考えて、レギュラー番組を減らすなどしてきたので、全盛期よりも収入は減ったそうです。

CMのギャラは吉本の取り分が大きい分損だと思い、確信犯でわざと減らしたとか。

ちなみに自宅は都内の一等地に4階建てビルを建て、事務所と併用しています。

自宅が入ってるビルの場所は東京都千代田区平河町(赤坂)にあります。

玄関先にはさんまさんが大好きな1950年代の『ロード・ランナー&ワイリー・コヨーテ』のアニメに出てくるキャラクター、ワイリーコヨーテの像があり、この象のせいですぐにさんまさんの自宅だとバレたとか。

外壁はアメリカから赤茶のレンガを輸入してビルをリフォーム、全体にレトロ感を演出してます。

各階がリビングだけでも20畳もある1LDKで、1階は駐車場、2階が事務所、3・4階部分が住居です。

内装にはかなりこだわりがあり、3階の内装は、1970年代のロサンゼルスのアイスクリーム屋さんのイメージだそうで、4階は「ビリージョエルのニューヨーク52番街」のポスターのイメージしてるそうです。

明石家さんまの自宅はバレバレ?若手時代の賃貸は酷かった・・・

今では豪邸に住んでいるさんまさんですが、若手時代に住んでたアパートはかなり酷かったみたいです。

当時、今津久寿川町、酒蔵通りの一筋南にあった「第一久寿川荘」と言う木造アパートに住んでいたそうですが、アパートのドアに鍵が付いておらず、南京錠のようなもので防犯していたとか。

島田紳助さん曰く、南京錠の番号が玄関のそばの壁に直接書かれていたそうです。

売れて少し収入が増えてからは「メガロコープ福島」というマンションに引っ越します。

このマンションの住んでた時代のことは、”ひょうきん族”で度々コントになっています。

当時、若くてイケメンだったさんまさんは女性にモテており、いろんな女性を待ち伏せさせては酷い扱いをしてたとか。

若い頃の明石家さんま。昔はイケメン!

現在のさんまさんは、ニコニコした優しいおじさんというイメージがありますが、実は昔はかなりのハンサムだったのです。

学生時代は女子生徒にモテモテで、バレンタインは持ち帰りきれない量を貰ったそうです。

学校は面白いだけでなく、運動神経抜群で、女子だけでなく男子からも好かれていたそうです。

高校を卒業した後は、笑福亭松之助師匠に弟子入りし『笑福亭さんま』の高座名で落語家としてデビューした頃です。

最初は落語家らしい格好で活動していましたが、師匠の助言でスーツ姿で漫才をするようになりました。

弟子入りしてわずか1年で、愛する女性と共に逃亡したそうですが、漫才の腕前は認められていました。

東京でお笑い芸人として活動すると、すぐに国民のスターの仲間入りを果たしました。

20代からのさんまさんを振り返ってみると、圧倒的なお笑いセンスだけでなく、顔立ちが端正でかっこいいことがすごいですね!

当時は女性ファンも多く、今よりもビッグスター気分を味わえたそうです。

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Aldo Pusey

Update: 2024-06-30